パーソナルブランディング
mimi 木原光知子 トータルコミュニケーションデザイン及びブランディング
中学生で国体成人の水泳の部にデビュー。国体初の中学生の快挙でした。
最後まで人生を自分らしく泳ぎぬいたひとでした。
ミミのブランドスローガンの作成。
セールスキャッチとしても活用しました。
「さぁ、泳ぎましょう!」このメッセージには様々な意味が含まれています。「立ち止まらないで進みましょう。新たにチャレンジしましょう。明るく生きましょう。一緒に人生を楽しみましょう!」など、彼女と言葉が有機的に反応します。
ミミのパーソナル・アイデンティティ・ワード「えいえん/泳縁」の作成。
パーソナルブランドの確立と訴求を目的に彼女のために作成したワードです。木原光知子が自ら体現してきた「泳ぐことにより広がる世界、人との繋がりにより高まる人生」を「およぐ」と「ごえん」の造語で表現しています。彼女自身が使用することにより生命を吹き込まれるパーソナルブランディングワードです。作成当初は彼女自身が使い慣れなかったワードですが最終的には彼女の法人で2006年2月に商標登録されました。彼女が亡くなる1年前のことです。
ミミのコーポレートスローガンの作成。クラブ経営の強化、スタッフの意識改良を目的として、それまでは漠然としていた「ミミの本来のありよう、未来へのありよう」をコーポレートスローガンとして作成しました。
ミミのクラブマークの作成。
クラブ経営の強化を目的として、家紋のようなパワフル、シンプルなロゴを作成しました。
ミミスイミングクラブウェアのデザイン制作です。
日本で初めてのオリンピアン出身のタレント、実業家として活躍されました。
ミミこと木原光知子さん(2007年10月13日にスイミングイベントの指導中に倒れ、18日深夜、静かに息をひきとりました。享年59歳)
初めてお会いしたのは僕が広告代理店D社の新人、22歳、盛夏の三重県鳥羽でした。
当時「母と子の水泳教室」という名物イベントが全国を巡回しており、入社仕立ての体力のありそうな僕が現場担当として巡業にはりつけられました。本来はクリエイティブ志望、しかし人が足りないと配属先はバリバリの営業成績を誇るアカウントチームへ。毎日が火事場のように忙しいチーム、残業100時間超えは当然、土日はイベント、キラ星のごとく大活躍する先輩たちの悩ましい雑用の数々。最若手の最も苦しい仕事はスポンサーを案内して「夜のヒットスタジオ」見学と歌手へのサイン依頼、大物S様のサイン待ちで4時間、あげくは本番中にフラッシュ撮影したスポンサーの身代わりにフジテレビ出入り禁止(すぐ解除)。業界紙誌のこまかいお付き合い原稿をカンヌ広告賞を総なめにしちゃう猛者ぞろいのクリエイティブルームに発注しに行き「こんなチンケな原稿なんか作れるか!」、「お前がコピー書いてレイアウトしとけ!」、「写植、版下とってこい!」なんて毎日言われ、お陰様で写植屋さん、版下デザイン屋さんへの築地、銀座界隈の裏道小道を目をつぶっても通えるまでに成長。夕方歩けばお水の女の子や板前さんから「おはよう」なんて声をかけられ。経験豊富な厳しく優秀なスポンサーの数々の逆鱗にふれ、寛容な先輩たちのフォローで日々たくましく成長する若手アドマンの眼前に、突如「天才美少女スイマー」として15歳で東京五輪に出場、若くして突如現役を引退し東レ水着モデルとして芸能界デビュー、オリンピアンで初めてイロモノで金銭を稼いだ!アマチュアリズムを踏みにじった!と日本水泳連盟さんから締め出しをくらいながら、初めてTVで元祖スポーツタレントとしてデビュー。当時、全盛を極めていたバリバリの33歳の木原光知子が仁王立ちしました。彼女は会長、社長がタニマチ。トップ直結ですから怖いものなし。鳥羽駅でのお迎えで初めて会ったその日の夜、部屋に呼ばれ「挨拶がなってない!」と説教をくらい上司もスポンサーも「カネミツは終った」と溜息をついたことも。光陰矢の如し、鳥羽から歳月はあっという間に流れ去り、出会いから10年後に広告代理店を退社しプランナーとして独立した僕に「ナニやっとる?時間があったらミミらしい、ビジネスに強い名刺を創ってほしい」と電話がありました。
ビジネス&パーソナルブランディングの名刺デザイン。 増刷のタイミングごとにブルーの濃淡、色出しが微妙に違いました。
「今回のブルーはいい!今回のはダメ!ね。次はもっと深く」ってよく言われてました。本当に繊細で敏感でクリエイティブ、独創的な女性でした。ビジネスにおいても自分のやり方にこだわり非常に慎重でした。やみくもに事業規模の拡大を狙わずに、ミミらしい質の向上に傾注していました。加えて一定の収入、補償があるスポーツ施設の業務委託をホテルオークラを皮切りにして、その拠点を堅実に増やしていました。
その彼女が50代半ばを過ぎ、突如スイミングクラブの直営施設経営に舵をきった時は少々以外な気がしました。
彼女から直営に踏み切った理由を聞きながら依頼されたのが、社是、クラブロゴマークのリニューアル、社員名刺、封筒から、施設のサイン、レセプションのデザイニング、会員カード、ホームページ、毎月発信するコメント作成など多岐にわたりました。ビジネスライクに言えば「木原光知子のトータルコミュニケーションデザイン及びブランディング」作業でした。まるごと任された理由は僕が以前に自主提案した彼女のフィロソフィーワード「泳縁/えいえん」の開発、パーソナルブランディングプラン「木原計画」の必要性と実行を彼女自身が認めたことによりました。