アスリートヒストリー記事作成

初めて五輪冬季大会に出場した日本女子選手を書く

いよいよ第22回ソチオリンピックです。今回はソチに挑む女子オリンピアンたちが忘れてはならない冬季五輪の先人、1人の日本人少女のことをメモしておきます。

冬季五輪備忘録 永遠の敬意をこめて 「小さなスケーター」初めて冬季大会に出場した日本女子選手のこと 構成と文章・金光貞幸 IGF

多くの日本人が冬のオリンピックの魅力を初めて知ったキッカケはアジア地域で初めて開催された1972年の札幌大会ではないでしょうか。
トワ・エ・モワが歌うテーマ曲「虹と雪のバラード」の美しい歌声とメロディが日本列島中に溢れ、誰もが口ずさめるような状態。カラーテレビが普及したお茶の間、家族団らんのひと時に届く粉雪の舞う大倉山ジャンプ台の清々しさ、白銀に輝く手稲山の峻厳なスロープ、果敢に競う日本人選手の雄姿をとらえる映像の数々。
そしてジャネット・リンを代表とする魅力的な海外オリンピアンの活躍と高い競技レベル。 そのなかでも、世界、そして国民が驚きの声をあげたスキージャンプ70m級の笠谷幸生選手、金野昭次選手、青地清二選手の日の丸飛行隊による金・銀・銅メダルの独占という壮挙。この瞬間から日本は冬季大会を夏季大会と同等に見做し、冬季オリンピアンに対する評価もこのタイミングから変わっていったようです。

札幌での栄光の瞬間から遡ること36年前、日本女性が冬季大会に参加を果たしたのは1936年の第4回大会、ドイツで開催されたガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでした。  この大会に1人の大阪の12歳の少女が初の冬季五輪日本代表女子選手として参加します。  小さなスケートシューズを抱え、パリで縫い上げたジャケットに小さな身体を包み、日の丸の刺繍を胸につけて。

稲田悦子はナチスドイツが支配するドイツにフィギュアスケート日本代表として乗り込みました。 可憐な演技の結果は10位、日本男子の最高位は片山敏一選手(関西学院)の15位でした。当時の世界女王は稲田選手の演技を見て「将来、スケート界を代表する選手」と高い評価をしました。
期待が高まる次回の冬季五輪は4年後の第5回大会、奇しくも母国、札幌オリンピックでした。メダル獲得を有望視されていましたが戦争の影響で日本が開催権を返上し無念の中止となってしまいます。長い戦争の時代、敗戦の窮乏と混乱。選手としてのピークを過ぎ、稲田悦子はオリンピックへ再度の挑戦の機会を失ってしまいます。

その後、30年余の歳月を経て冒頭のように札幌大会は再び復活し、日本国民へ冬季大会、そして冬季オリンピアン達の鮮烈な印象を遺すことになります。
戦後、現役を引退した彼女は多くの優秀なスケーターを育て、オリンピックへと送りだしました。 ある時、彼女は新聞にこんなコメントをしました。
「五輪は参加することに意義があるなんてうそ。本番のたった一回のチャンスに成功し、一位にならなくちゃ」
女性スポーツ、冬季オリンピアンへの理解が低い戦前戦後、フィギュアスケートのパイオニアとして先陣を切り、様々な経験を経た彼女だから、そして女性として素直に生き抜いた彼女だからこそ公言し、また素直に頷ける金言です。小さなスケーターは偉大なスケーターでした。

前回バンクーバーで94名の選手団を率いた団長は橋本聖子、開会式旗手に岡崎朋美、閉会式旗手は浅田真央。70年余前に1人の日本人少女が初めて滑り出した冬季五輪への挑戦は、戦争と混乱、戦後の永い時を経て大きく育まれています。
さぁ、ソチを応援しましょう。

主人公:稲田 悦子(いなだ えつこ)
1924年2月8日生れ、 2003年7月8日逝去。 大阪府出身。大阪菅南小学校6年生時に出場。梅花高等女学校卒業。 フィギュアスケート・女子シングル 冬季大会日本女子選手として初出場する。第4回オリンピック冬季競技大会1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会日本代表。日本人として最年少オリンピアン。第二次世界大戦前後の全日本選手権7回優勝、女子フィギュアスケートのパイオニアとして活躍する。引退後は指導者として活動。